映画「秘密の森の、その向こう(原題:Petite maman)」を、ザ・シネマメンバーズの配信で観た。
この映画は2021年のフランス映画で、映画のジャンルはファンタジー・ドラマ・SF映画だ。
この映画は、ネリーという8歳の女の子を中心として描かれる物語だ。この映画には、主に、ネリー、ネリーの母マリオン、ネリーの父、ネリーのおばあ
ちゃん、ネリーのひいおばあちゃんのネリーの存在が軸になる。
この映画の原題は、フランス語で、日本語訳すると、”幼いお母さん”、という意味だ。幼いお母さん? どういうことだろう? と思われる方もいるかもしれないが、それこそこの映画のファンタジー・SFたる理由だ。
この映画を簡単に言ってしまうと、8歳の女の子のネリーが、タイムスリップして、8歳のネリーの母親マリオンに会う、という物語だ。この時間軸の歪みというか、ねじれが、この映画が、ファンタジー・SF映画である由縁だ。
この映画の冒頭は、老人ホームの映像から始まる。ネリーのおばあちゃんが、どうも老人ホームで亡くなったらしい。ネリーは、おばあちゃんにしっかりしたさよなら言えなかったことを後悔している様子だ。
一方、母親のマリオンの方は、おばあちゃんのことをあまりよく思ってはいない様子だ。母親のマリオンは、ネリーのおばあちゃん、つまりマリオンの母親の部屋の片づけをしたら、さっさとおばあちゃんの家から去ってしまう。
どうも、ネリーの母マリオンと、ネリーの父親は離婚しそうな関係で、ネリーをネリーの父親の元に置いて、ネリーの元からマリオンは去ってしまう。ネリーは、母親のマリオンとの仲が心配の様子だ。
そこで、この映画のSF的要素であるタイムスリップだ。何と、おばあちゃんの家の裏庭にある森に入ると、そこが時間ループの場所になっていて、森がネリーが8歳の現在と、マリオンが8歳の時の過去と繋がっているのだ。
ネリーは、おばあちゃんの家で見つけたパドルボールをして遊んでいると、ボールが森の中に飛んでいってしまい、森の中に入り込む。そこで、森を探検していると、マリオンが秘密基地を作っているのに遭遇する。それが、ネリーとマリオンの出会いだ。
この映画がファンタジーなのは、タイムスリップというSF的要素が、森の中に入っていくと、子供時代のお母さんに出会うというように、オブラートに包まれて、SF=宇宙人というような先入観を軟化しているからだろう。
この映画では、ネリーも、マリオンも、ネリーのおばあちゃんも、仲良く過ごしている。それが、この映画の救いであり、この映画が言いたいことなのかもしれない。つまり映画「彼女のいない部屋」では、家族の解体が描かれていたが、この映画「秘密の森の、その向こう」では、解体された家族間の和解が描かれている。
この映画「秘密の森の、その向こう」では、家族との生活に疲れた母親マリオンが、家族を捨てたが、8歳のネリーの元には帰ってきて和解をするという物語だ。タイムスリップの記憶をマリオンが共有しているかは謎だが。
映画のラスト、ネリーは母親をマリオンと呼び、母親のマリオンは娘をネリーと呼ぶ。お互いを固有名で呼ぶこと、これは家族ではなく、相手を1人の人間として認めたということだろう。
つまり、家父長制が作り出した家族を超えて、2人が人間としてお互いを尊重し始めた結果が、この映画のラストで描かれている。つまり、この映画で言いたいことには、映画「彼女のいない部屋」のように、または映画「Rodeo ロデオ」のように、家父長制の克服があると考えられる。
映画「彼女のいない部屋」では、主人公の女性の子供と夫が遭難して死んでしまうという寓話に、主人公の女性が家族と決別していくという姿が描かれていた。また映画「Rodeo ロデオ」では、主人公のノンバイナリーの身体的女性が、家父長制的窃盗集団を蹴散らす様子が描かれていた。そしてこの映画「秘密の森の、その向こう」だ。
映画「秘密の森の、その向こう」でも、前2者の映画のように家父長制と決別する姿が描かれている。それは、前2者と比べて、非常に穏やかな家族との決別の仕方だ。この映画「秘密の森の、その向こう」では、お互いを理解することで、家族との決別が描かれる。
通常の家族では、母親は母親の、子供は子供の役割を演じる。つまり、良い母であろうとして苦しみ、良い子供であろうとして苦しむ。そこに無理が生じて、お互いのことを素直に愛せなくなる。
その苦悩を克服するには、家父長制から離脱して、家族の軛から外れて、お互いを苦悩も喜びもする1人の人間として受け入れることが重要になってくると、この映画では、述べられているようだ。
お母さんと呼ばずに、マリオンという固有名で母親を呼ぶ。そこに、家族を解消して、良好な人間関係を築くためのヒントがある気がする。固有名で相手を呼ぶこと、それが、家族という檻を超えていくことの、一種の目印になっている。
ただ、人を固有名で呼ぶことが重要なのではない。固有名は、この場合家族を超えた証のようなもので、固有名で呼べばすべてが解決するわけでは当然ない。家族の軛を解消するためには、お互いの理解が何より必要だ。
母親の子供時代を知り、母親の立派さの梯子を外すこと。母親の男性への思いを、ごっこ遊びを通じて知り、母親が夫を愛さなくなることを理解すること。相手のあらゆることへの理解が、家族という軛を超えていくきっかけになる。
家族から、お互いへの理解を経て、固有名で呼び合うという証を手に入れること。くれぐれも、固有名で呼べば、すべてが克服されるわけではないことは、注記しておきたい。固有名は、映画が利用する記号の一種でしかないことの認識は重要だ。
大切なのはお互いの理解であり、お互いを人として認めることだ。映画「秘密の森の、その向こう」では、最後に固有名で呼び合う。これは、非常に映画的にわかりやすい作りに映画がなっていることの現れだ。
映画「彼女のいない部屋」では、主人公は子供や夫を、固有名で最初から呼ぶ。それは、映画「彼女のいない部屋」の主人公が、既に家族という家父長制の嫌さ加減に気付いているということを示している。
映画「Rodeo ロデオ」、映画「彼女のいない部屋」、映画「秘密の森の、その向こう」これらの映画は、家父長制に対する、一種の答えを示している。そして、これらの映画が、ザ・シネマメンバーズの今観るべき映画3本にあげられていることは、重要なことだ。