映画「彼女のいない部屋(原題:Serre moi fort)」を、シネマメンバーズで観た。
この映画は2021年のフランス映画で、映画のジャンルは時間軸がバラバラになったドラマ映画だ。
この映画は、明らかに家父長制制度への不満と、家族への愛を描いている、アンビバレントともとれる映画だ。しかし、愛している家族への愛も、家族自体というより、AからBへの愛、AからCへの愛、AからDへの愛、BからAへの愛、BからCへの愛…というように、個人間の愛を描いている。
この映画は、母親のクラリスと父親のマルクと2人の子供の姉のリュシーと弟ポールという家族を中心として描いた物語だ。先の例に従えば、クラリスからマルクへの愛、クラリスからリュシーへの愛、クラリスからポールへの愛…といったものを描いている。
この映画は、家族の愛を描いているというよりは、AからBへの愛…といった直接的な関係の愛を描いている。つまり、家族への愛が存在するというひとまとまりの括り方ではなく、例えばクラリスのマルクへの愛といった、それぞれの愛を描いている。
この映画は、寓話的映画だということができる。それは、クラリスが家族と離れ、家族を忘却していくことを、マルクとリュシーとポールと物理的に離れていくこと、つまり、クラリスが家を出て、最後にはピレネー山脈でマルクたちが物理的に死んでしまい永遠の別れになることを、家を出ること、死んで消えることといった表現を使って比喩的に示している。
家族の話ではなく、AとかBとかいう記号同士の関係の話。別れという映画自体の寓話性。この映画の途切れて前後が入れ替わった時間軸。このどれもが、家族がそこには実は存在せず、個人の関係があるだけだという事実を明確に示している。
この映画は、家族を作り出すのを拒否して、個人間の関係を浮き彫りにする。それは、クラリスから家族全体への愛という形をとらず、クラリスのマルクへの気持ち…というような描き方をする。
この映画は、家族を描くのではなくて、実は家族なんていうものは幻想でしかないことをあぶり出す。個人間の愛。個人同士の別れ。時間軸がバラバラになり、それぞれの存在がバラバラに映し出される。家族の連帯の解消が、この映画には通底している。
映画「ブリッツ ロンドン大空襲」を、ここで思い出してみよう。映画ブリッツでは、父と子は離れ離れで、子は母の元から映画の冒頭去っていき、唯一、母と同居している祖父も戦争で死んでいく。
ここで、祖父とか父とか母とか子とかの言葉を使うと、家族が蘇ってくるが、この関係を家族の名の呼び方ではなくて、固有名の呼び方にしたら、それは、この映画「ブリッツ」が家族の解消から、個人間への関係へ焦点を絞っていると見ることも可能になるだろう。
つまり、映画を父母子などの総称を使わずに、マーカス、リタ、ジョージなどの固有名で、文章により語ることで、家族よりも個人の物語がそこにあること語ることが可能だ。その時、映画「ブリッツ」の子の母への郷愁も、ジョージがリタを思う気持ちに変換される。
家族を思いながら生きることは、軽い発狂の原因にもなることが、この映画「彼女のいない部屋」では、示される。クラリスが、クラリスと何の関係もない子供と、その子供を注意するクラリスと何の関係もない父親に対して、子供の扱い方があまりにも酷いと突然クラリスがキレて、その2人に怒鳴り出す。
これは、クラリスの発狂でもあるし、クラリスの中の家族像への執着がここに見て取れる。クラリスは父と子の関係の中に理想像をまだ見ている。だから、クラリスは発狂するのだ。つまり、家族という幻想が、クラリスを発狂させる。
この映画の始まりは、クラリスの苦悩から始まる。そしてクラリスは、映画の最後の辺りで、家族の遺骸を見て、泣き叫び、家族の幻想との別れを告げる。クラリスは映画冒頭、苦痛の中で、家族写真を使って神経衰弱というカードゲームのようなことをしている。
フランス語では神経衰弱を何というかはわからないが、日本語の意味でならば、クラリスは文字通り神経衰弱をしていることになる。英語でカードゲームの神経衰弱はPelmanismと言い、リーダーズ英和辞典によると、ベルマン式記憶術⦅元来英国の教育機関Pelman Instituteが開発した⦆と、⦅トランプ⦆神経衰弱のことを指すとある。
日本語の意味でなら、明らかにクラリスは、写真を使ってカードゲームの神経衰弱をしていることになり、カードゲームをすることが、クラリスの精神の状態を示している。クラリスは、日本語を知る者から見れば、明らかに直喩的に神経衰弱をしている。
家族はない、あるのは個人間の関係だけである、とすると、家族に関する悩みは消えて、人々は国家を持たず家族にも属さない、ノマドですら到達しなかった地点に達する。遊牧民も、結婚はするからだ。
この個人主義を可能にしているのは、アメリカナイズされた社会だ。消費主義に個人主義、これは、経済主体の世界には非常に都合が良い。家族は消え去り、消費社会が要請した生き方がそこに残る。
社会の形態が、旧態依然と変わり、消費主義と個人主義に移っていくとき、そこでは家族の必要性が薄れていく。その意味では、この映画「彼女のいない部屋」は、非常に消費主義と個人主義にあったアメリカナイズされた、プロバガンダ映画だと言うことができる。
ただ、実際に家族が女性の自由を奪ってきたのは事実だ。過去には女性には職業選択の自由はなかった。つまりは女性は、経済的に男性に従属するしかなかった。ただ、大概の男にある自由も、酒を飲んで女を買うくらいのことでしかなく、それは自由とは言えない。
過去の女性たちは、コンビニやスーパーもない時代の、自給自足の生活の中での女性たちは、今の専業主婦たちよりは高い地位にあったに違いない。なぜならば、そこでは女性も貴重な労働力だからだ。ただ、それは貴族や王族にはあてはまらないかもしれないが。
買い物好きな女性たち。なぜ、女性が買い物好きか? それは、個人主義と消費主義の世の中に世界がなってしまった以上、消費主義・個人主義上での自由を女性は獲得するしかないからだ。女性が買い物好きなのは、女性が消費社会と個人主義に、家事からの解放という希望を見いだしているからであり、前時代的な自給自足の生活の女性の地位も魅力的には映らないからだろう。
この映画は、個人主義と消費主義が加速していく世の中で、プロバガンダ映画として機能して、個人主義と消費主義と合わない家族を解体していく。それは、同時に資本主義が、家族を虐待するからであり、その家族への虐待をする、消費主義・個人主義・資本主義は、家父長制とは相いれないものなのだ。
いくら、家父長制保存を説いても、もうあなたの生きている世界は、家父長制をうまく受け入れることができない。この映画「彼女のいない部屋」は、消費主義・個人主義・資本主義のプロバガンダ映画であり、この映画を嘆くのが可能なのは、アナキズムが訪れた先の愛を知る者だけだろう。