映画「恋人たちの予感(原題:When Harry Met Sally…)」を観た。
この映画は1989年のアメリカ映画で、映画のジャンルは恋愛だ。
この映画の主要人物は、ハリー・バーンズという男性と、サリー・オルブライトという女性だ。この映画は、この2人、ハリーとサリーが、1977年にシカゴ大学からニュー・ヨークに旅立つところから始まる。
この映画の原題:When Harry Met Sally…は、直訳すると“ハリーがサリーと出会った時…”だ。この映画の原題の、ハリーとサリーは、この映画の主要な登場人物、ハリーとサリーのことだ。つまり、この映画はハリーとサリーの恋愛映画だ。
ハリーはプレイボーイ、サリーは魅力的な女性。この映画の冒頭は、1977年のシカゴ大学だ。シカゴからニュー・ヨークまで、ハリーとハリーの彼女の親友サリーは、車で引っ越しのための荷物を積んで旅に出る。
そこで話題になるのは、「男と女の間に友達関係はない」ということだ。男は女性と付き合いだすと、その女性とのセックスを既に意識している。セックスを意識しない女性とは、男性はそもそも話したりしない。というのが、ハリーの持論だ。
この映画を観ていると、ハリーもサリーもお互いに気があることがわかる。ハリーは、サリーを「君は魅力的な女性だ」と言い、サリーはハリーが自分に気のないことを示すと、不機嫌な表情になる。つまり、男と女の間には友達関係はない。
ハリーとサリーは、大学を出て働く、ホワイトカラーのエリートだ。つまり、ハリーとサリーの恋愛関係は、アメリカ合衆国という発展した先進国の経済基盤を土台として成り立っている。先進国は、発展途上国を搾取して経済的繁栄を手に入れている。
さらに、ハリーやサリーのような大学出のホワイトカラーは、ブルーカラーの肉体労働を基盤に成り立っている。ブルーカラーは、家を建て、水道工事をして、道路を作り、工業製品を生産して、ホワイトカラーの生活基盤を物質的に支える。
ハリーとサリーの恋愛は、搾取の上に成り立っている。この映画では、搾取は描かれない。描かれるのは、ホワイトカラーの娯楽である恋愛だ。恋愛がさも人生の重要項目であるかのように描かれるが、これは実はホワイトカラーの特権だ。
恋愛を楽しむには、経済的基盤が必要だ。この映画は、ブルーカラーの恋愛は描かない。ブルーカラーは経済的にあくせくしていて、住む場所も汚い安アパート。映画として、魅力的には映らないというのが、ホワイトカラーの恋愛を撮る理由だろうか?
1977年、第二次世界大戦から32年後。1960年代のベトナム戦争も終わり、反戦運動や、ヒッピー・ムーヴメントも、とうに終わりを告げた後の時代に、学生時代を過ごしたハリーとサリー。
1980年からはロナルド・レーガンが大統領に就任して、アメリカが世界に新自由主義を普及させる。アメリカが世界の宗主国徒として、アメリカを第一として、その他の国には、アメリカの特権階級が利益を出すために働いてもらう。
アメリカ以外の国の国民が死のうが、知ったこっちゃない。アメリカの特権階級の懐が良ければ何も問題ない。それが、ハリーとサリーが恋愛をしている時代背景だ。南米や中東やアフリカ危機と関係しつつも、その悲惨さを感じさせないのがこの映画「恋人たちの予感」だ。
つまり、アメリカ以外の国の危機により、アメリカの特権階級は繁栄しながら、その危機の様子は全く描かれない。中米や南米でのアメリカが支援する政権による軍事的圧力を背景とした危機には全く触れらない。それがこの映画「恋人たちの予感」だ。
アメリカは国外情勢に疎くなり、アメリカ人としての誇りに酔いしれ、恋愛こそがわが人生として、国外の危機など無視して、アメリカの繫栄にも実は興味がない。恋愛こそすべて。仕事は、恋愛のための経済基盤を確保するための保証。
その仕事が、南米の搾取によって成り立っているのには関心がない。ハリーやサリーが使っているパソコンや家電の原材料は、第三世界の国々から安く手に入れられて、第三世界の労働者は安い賃金で酷使されている。
アメリカは世界に関心を失った。関心のあるのは、恋愛と結婚。特権階級以外は、第三世界に関心をはらおうとしない。アメリカの60年代の情熱は、今や恋愛や結婚に代わっている。例えば今の日本人の若者が、インフルエンサーの動画に重要な関心を向けるように。
世界は無関心になった。大衆は愚民に落ちた。それを象徴しているのが、1980年代のホワイトカラーの生き方だ。恋愛にしか興味がない。はっきり言って、終わっている。何が自由の女神だ。何が自由だ。自由は他者への寛容によって成り立つというのに。
そう考えてこの映画を観ていると、メグ・ライアンが演じるサリーの、セックスの演技の実践のシーンも笑えてくる。シリアスにセックスのオルガズムの問題に悩んでいるハリーをしり目に、サリーはセックス・オルガズム神話の虚構を演じる。
セックスのオルガズムの虚構を知りながら、サリーはアメリカの繁栄の外には出ようとはしない。せいぜい恋愛がらみの話題を男とするのが、サリーの男との関係だ。セックスのオルガズムの虚構には気付いているが、アメリカの繁栄の虚構には気付いていない。
恋愛と結婚に浮かれるアメリカ。恋愛と結婚は、普遍的なものか? 友達とのフット・ボール観戦も普遍的なものか? 男女2人での美しい建築の中での会話も普遍的なものか? そんなものは、アメリカに利用されている、例えば南米にはあるものなのか?
南米にフット・ボール観戦はないとしても、それは本当に繁栄の印なのか? 南米のアンデスにはインカ帝国があった。その繁栄も、アメリカの繁栄とあまり変わらないのではないか? 帝国の繁栄を追いかける特権階級を追いかける大衆の衆愚さ。
アメリカの特権階級やホワイトカラーや、もしかしたらブルーカラーも、美に囚われて、美の追求のために、第三世界を利用する。第三世界は、貧困と市民の虐殺が行われる。アメリカがひいきする現地の政権の維持のために。
第三世界の国民は、犠牲者だ。アメリカを筆頭とする先進国の世界の繁栄のための。エル・サルバドルやグアテマラやニカラグアなどの中米の国で、アメリカの美の繁栄のために行われている残虐な行為を知りながら、この映画「恋人たちの予感」を観れば、アメリカの虚構に気付くかもしれない。