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国から排除される同性愛者

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映画「モーリス(原題:Maurice)」を観た。

この映画は1987年のイギリス映画で、映画のジャンルは恋愛映画だ。

この映画の舞台は20世紀初頭、1910年代頃のイングランドだ。この映画で描かれているのは、男性同士の同性愛だが、イングランドを含むUKでは、1533年から同性愛は死刑であり、1861年から死刑は廃止されたが、最小でも10年の禁固刑だった。

1967年から同性愛は部分的に合法化された。そして、2013年から同性同士の結婚は徐々にUKでも認められて行き、2013年にはイングランドウェールズ、2014年にはスコットランド、2020年には北アイルランドでも同性同士の結婚が合法化された。

つまり、この映画「モーリス」の舞台となった1910年代頃からのイギリスでは、同性愛は、最低でも禁固10年になる犯罪だった。映画中で描かれているのは、同性愛は、同性愛者同士と、医者と“同性愛という病気の患者”の間の秘密になっていたということだ。

なぜ秘密かというと、同性愛は犯罪だからだ。

この映画「モーリス」は原作は、エドワード・モーガン・フォースターの小説だ。この小説は、1913から1914年の間にいったん書き上げられて、その後、1932年、1952~1960年に改訂されている。

この小説には実際のモデルがいて、この小説のモデルとなったのはエドワード・カーペンターとジョージ・メッリルという実際の階級を越えた2人だ。エドワード・カーペンターは、イングランドの階級が上の方の人物で、ジョージ・メッリルは労働者階級だった。

ジョージ・メッリルは、映画「モーリス」に登場する、アレック・スカダーという、労働者階級の人物のモデルとなっている。そして、スカダーの恋人のモーリスのモデルがエドワード・カーペンターだ。

この映画の主な登場人物は、主人公のモーリス・ホール、モーリスのケンブリッジ大学での友達クライブ・ダラム、そしてリズリーだ。モーリスを同性愛の世界に誘うのが、クライブとリズリーだ。

リズリーは、モーリスと同じギリシア文学の授業らしきものを受講していて、そこでリズリーとモーリスは知り合い、リズリーが音楽のクラブに入らないか? とモーリスを誘い、その音楽クラブで出会ったのがクライブだ。

クライブはモーリスの恋人となり、一方リズリーは、クライブとモーリスに、同性愛者が当時の社会から受けていた仕打ちを、身を持って教示することになる。

同性愛に目覚める前のモーリスは、リズリーとクライブに対して、こう言う。「ギリシアでは同性愛が認められていたが、今はキリスト教の支配する世界だ。同性愛ではなく異性愛が世界を支配しているよ」と。

それを聴いたリズリーとクライブは、にやついている。なぜなら、クライブもリズリーも同性愛者であり、モーリスにある同性愛者の傾向を読み取っているからだ。この場合、古代ギリシアは同性愛を示し、キリスト教徒は異性愛を示している。

リズリーは、同性愛者の当時の状況をクライブとモーリスに教示する。つまり、リズリーは同性愛の罪で捕まる。それは、新聞に載り、リズリーは上流階級としての人生を棒に振ることになる。

その事実に怯えるのは、クライブだ。クライブはリズリーが逮捕された件から、異性愛に向かう。そして、法律家になり、女性と結婚をする。クライブは、リズリーが逮捕されると、ストレスのあまり、倒れる。

それを介抱するのがモーリスだ。モーリスは、クライブとは違う。モーリスの考えでは自分は金を持っているから、警察を買収できる。だから、同性愛が見つかっても、金で解決できるという考えでいる。

クライブとモーリスの恋愛関係は、リズリーの逮捕によるクライブのストレスによって解消に向かう。そして、その後、モーリスは、アレック・スカダーという労働者階級の若者と愛し合うようになる。クライブは、女性と結婚する。

クライブとスカダーの違いは、愛に命を懸けているかいないかだ。スカダーは、モーリスとは違い、労働者階級で、お金を持っていない。スカダーの家族は新天地での成功を求めてイングランドから、南米のブエノスアイレスに移住を決めている。

スカダーは、モーリスとの恋に破れたら、家族と離れ離れになり孤立するだけではなく、運が悪ければ、モーリスのようにお金がないので、同性愛の罪で警察に捕まってしまう。スカダーにとっての同性愛は命を懸けたものだ。

それに対して、モーリスは、上流階級で金もあり、最初はスカダーのことを教養がない貧乏人と見下している。だが、モーリスは、スカダーの情熱的で命を懸けた愛のとりこになっていく。

この映画「モーリス」の冒頭で、教授が講義をしている。そこでは、人は愛する人と出会い初めて人となると言われる。愛する人がいなければ、その人の人生は虚しいものだと、その講義では語っている。

人間は学習のためにも、自らのアイデンティティを確立することが大切だと言われている。そのためには、自分の性的アイデンティティの確率も重要になる。そこで、性的アイデンティティが否定されたら、その人は人としての学習が困難になる。

アイデンティティが否定されることへの苦痛は、ここ最近のLGBTQの運動の高まりをみていても明らかだ。彼ら彼女らがなぜ、自らの権利を訴えるのか? それは彼らが苦しんでいるからだ。

同性愛者であることで、好きな人との結婚が認めてもらえない現実に、人々は苦痛を訴えている。なぜ、古代ギリシアでは当然とされていたことが、現代の社会では抑圧されるのか? それは、キリスト教異性愛を良しとする教義と、キリスト教的な価値観に基づく法制度があるからだろう。

UKでは、法的に同性同士の結婚は認められている。だが、世界では同性婚が認められていない国も存在する。日本の同性婚の整備もまだ道半ばだ。同性婚が完全に日本で認められているとは言えない。

人の人生は、その人の生きている時代や土地に支配される。そこから脱するには、何人もの人の、大変な努力の積み重ねが必要だ。UKでの同性婚の合法化のためには、長い道のりが必要だった。

日本でも、パートナーシップ制度が2015年に東京の渋谷区と世田谷区で、認められてからどんどん他の自治体にも広がっている。ただ、パートナーシップは国が認める結婚とは別物だ。

人には、権利がある。結婚したいと当人同士が感じているのならば、それを認めるのが、人として当たり前の行為ではないのか? なぜ愛することに格差が存在するのか? 愛することは、各人の平等の権利だ。それを国は、認めるべきだ。

 


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