映画「最後の誘惑(原題:The Last Temptation of Christ)」を観た。
この映画は1988年のアメリカ映画で、映画のジャンルはキリスト教ドラマだ。
邦題の「最後の誘惑」の“誘惑”という言葉を辞書で調べると、“誘って心を惑わすこと。悪事に誘い込むこと。”とある。
原題の「The Last Temptation of Christ」の”temptation”をCASIOの電子辞書のオックスフォード現代英英辞典で調べると“the desire to do or have sth that you know is bad or wrong””a thing that makes sb want to do or have sth that they know is bad or wrong”と載っている。
またAppleのアプリのオックスフォード英英辞典類語辞典で同じく”temptation”について調べると“the desire to do something, especially something wrong or unwise. ”と載っている。
ちなみにCASIOの電子辞書のオックスフォード現代英英辞典の訳で出てくる“sth”とは“something”の略で、“sb”とは“somebody, someone”の略だ。
CASIOの電子辞書のオックスフォード現代英英辞典の”temptation”の意味を訳すと“あなたが悪いもしくは間違っていると知りながら、それを行ったり手に入れたりする欲望”“彼らが悪いもしくは間違っていると知りながら、それを誰かがすることや手に入れることを欲すること”となる。
また、Appleのアプリのオックスフォード英英辞典類語辞典の”temptation”の意味を訳すと“何かをする欲望、特に間違っているかもしくは賢くない何かをすることの”となる。
日本語辞典の“誘惑”には、悪いことと知りながら、その悪いことに引き込まれてしまう、という受動的な意味合いが強い。それに対して、英英辞典の“temptation”には、悪いこととは知りながらそれをしてしまう、という能動的な意味合いが強いことがわかる。
この映画「最後の誘惑」の“誘惑”は、キリストの犯す、神に対する罪であることが、映画を観ているとわかる。そして、この映画には、受動的に描かれる能動的罪と、明らかに能動的に描かれる罪がある。
キリストが受ける“誘惑”は、支配欲であったり、性欲であったりするのだが、この映画で、後半に出てくる2つの誘惑からの罪に、焦点を絞るとわかりやすい。
1つ目の罪は、ユダヤ教の教会を焼き払い、ユダヤ教の当時の行いをやめさせること。2つ目の罪は、宗教的な改革など忘れて、保守的に結婚をして家庭を持ち人生を終えていくことだ。
1つ目の宗教改革的な意味合いに置いては、キリストの誘惑は能動的意味合いを持つ。つまり悪いとは知りながらそれを行う、ということだ。キリストは罪を能動的に行う。金銭的に腐敗して、動物を過剰に生贄にするユダヤ教に対して。
2つ目の保守的な結婚生活に対しては、映画中のキリストの態度は受動的だ。悪魔の化けた少女の姿をした天使に、言われるままに、キリストはセックスをして、結婚をして、子供を育て、老いて死んでいく。
キリストの罪への誘惑。能動的な罪と、受動的な罪。どちらも罪を行っていることは同じだ。そして、キリスト自身は、能動的な罪を望んでいるようにこの映画では描かれる。なぜなら、キリストは2つ目の、結婚して老いて死んでいくという罪に対して後悔を示すからだ。
キリストは1つ目の罪、宗教改革をするという罪を、映画の最後で選択をする。つまり、キリストは、改革者として生きて死ぬことを選択する。それが、当時異端とされていながらも、キリストは自らの神の声を信じて、宗教的反抗を行う。
キリストの死は、人間の原罪を償うためのものであったと言われる。人間の原罪とは、人間は神のように全能でもないのに、善悪判断を行うことだ。その人間の善悪判断という原罪を、キリストは十字架に架けられることで、償う。
不完全な人間が、善悪判断を行う。キリストが磔刑になることで、その善悪判断の罪から全人類が救われる。それがキリストの磔刑の意味だ。ならば、人は自由気ままに善悪判断をしていいのか?
人は、善悪判断をしながら生きている。それは、キリストが人類の罪を被ってくれて、その善悪判断から罪が生じないという教義とは、少し違うように思われる。
例えば不倫。人は不倫をすることにより、時に、大勢の人から非難を受ける。そこで、不倫をした当人は罪を感じずにいられるだろうか? 日本のように人目を気にする道徳重んじる国では、非難されればそこに罪を感じずにはいられない。
当人はその罪を自覚するかどうかは別としても、苦しみの中に置かれる。苦しみの中から、それが罪であったと感じることもあるだろう。そして、キリスト教徒ならば、キリストの磔刑を思い起こし、罪の意識を軽減するのかもしれない。
それとも、キリストは人類を原罪からキリスト自身が磔刑になることで救ったのだから、キリスト教徒でない者が、罪の意識を持たない、もしくは忘れていくのはキリストのおかげなのだろうか?
少なくともキリスト教徒は、キリストのおかげで自分の罪が消えていくと感じるのだろう。ただ、それはキリスト教の教えを知らない者にとっては、キリストの磔刑のことなど何も関係のないことだ。
ただ、それでもキリスト教徒は、キリストは全人類を救ったと言い張るだろうし、キリスト教徒でないものには、それはまったく関係のないことになるだろう。それが、宗教を信じる者と、その宗教を信じない者との差だ。
キリストが磔刑になった事実を知らなくて、つまりキリスト教徒ではなくて、罪に苦しんでいる人がいるとする。その人がキリスト教を知ったら、その人は罪が重ければ重いほど、「あの時の自分の善悪判断が間違っていたのでは」と思えば思うほど、キリスト教に救済を見いだすのかもしれない。
映画中の、1つ目のキリストの罪と、2つ目のキリストの罪。そのどちらを選ぶかというキリスト自身の善悪判断。その善悪判断の結果として、キリストは1つ目の罪を選択して、磔刑になり、人類の原罪を帳消しにして死んでいく。
つまり、1つ目の罪である宗教改革をすることにより磔刑にかけられることにより、キリストは正しい善悪判断をしたことになる、というのがこの映画の主張でもある。保守的な生を全うして、変革を起こさずに死んでいくことに苦しむよりも、人類を救って死んでいく。
人類の善悪判断をするという原罪を、キリスト自身が善悪判断をして、磔刑にかけられることを選び、人類を救って死んでいく。その磔刑にかけられるのには、宗教的改革が、要因になっていることは重要だ。
キリストは神の声を聴く預言者だった。キリスト自身は磔刑にかけられることを、宗教改革を起こして磔刑にかけられることを、神の声として聴いている。そして、保守的な生き方をして家族を持つことをキリストにささやきかけたのは悪魔だった。
ただ、声の主の判断をするのはキリスト自身だ。それは、人が善悪判断をするときに、過去経験や教えを参考にするのと同じだ。世界をどう見るかは、キリスト自身に委ねられている。だから、キリストは神の声に苦しむのだ。
キリストの善悪判断が人類を救ったのかは、実際の所わからない。しかし、キリスト教を信じる者にとってキリストの磔刑は、キリスト教を信じる者を救っているのだろう。
苦痛を感じるから、そこから逃れるために、キリストの磔刑による原罪の消滅を信じる。それが、キリスト教を信じる誘因にもなりえる。キリストの磔刑は、苦しむ者には、最高の救済となり、キリスト教を信じる者を増やし、キリストは人類を救ったことになることになることもありえるのかもしれない。
どのような誘惑を選択するのかで、その人の価値が決まるということ。キリストの示していることは、人々が善悪判断の重要さを知るべきだということだろう。