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理想の恋愛とルッキズム

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映画「スプラッシュ(原題:Splash)」を観た。

この映画は1984年のアメリカ映画で、映画のジャンルはファンタジー恋愛だ。

この映画は、1837年に発行された、ハンス・クリスチャン・アンデルセンによるデンマークのおとぎ話の人魚姫を、1984年当時のアメリカのニュー・ヨークに場所を移して、実写化した映画だ。

この映画の主人公は、アラン・バウアーという、青果会社を兄のフレディーと共に切り盛りする若者だ。アランは、少しお金持ちで、付き合っていたガールフレンドに振られて別れるのが、この映画の冒頭だ。

アンデルセンのおとぎ話通りに、アランは子供の頃に海で溺れて、人魚のマディソンに溺れているところを助けてもらう。このアランの溺れ方は、事故で溺れたというよりは、海を見つめていて、海に引き込まれて、海に飛び込んだというのが正確だ。

アランは、海の神秘的な輝きに引き込まれていたのかもしれない。アランが海に飛び込むと、海水の雫が飛び散りそれが海に落ちる。そうこの映画の原題にあるsplashを映像で示しているのが、アランが海に飛び降りるシーンだ。

雫が跳ね上がり、それが落ちる。それは、まるで人が恋をした時の様子を、映像で表しているかのようだ。恋をすると人の気持ちは舞い上がり、そして、恋に落ちる。この映画の原題のsplashは恋をするときの感情を現わしている。

映画では、美男と美女が恋に落ちる。映画に、特に恋愛映画に、見た目が冴えない人物が登場することはない。映画を演じるのは、美女と美男だ。それが、観客が映画に求めるものであり、それは現実の世界のルッキズム、つまり見た目が良い人と一緒にいたい、という願望の現れだ。

この世界は、ルッキズムが支配している。人は、美のイデアの現れであるかのような、美女や美男を求める気持ちを持っている。その現れが映画と言っていいし、それは、エンターテイメントの世界の常識となっている。

この映画に登場する人魚は、ダリル・ハンナという女優が演じているが、スタイルも良く、顔もきれいで、声も魅力的だ。アンデルセンの人魚姫では、人魚姫は尾ひれを足にするために、美しい声を失うが、この映画「スプラッシュ」の人魚は、テレビを観て英語を習得する。

その他にもアンデルセンのおとぎ話では、尾ひれが足となった人魚は、歩くたびに激痛を感じるとあるが、この映画では、マディソンは、痛みの様子など見せない。それは、マディソンがアランに恋をしているためかもしれない。恋は痛みを忘れさせる。

ルッキズムが映画を、エンターテイメントの世界を支配している。ルッキズムには、声も含まれる。とにかく、被写体が美しくないと、視聴者は満足しない。その欲望を利用したのが、映画という世界で、ルッキズムは明らかに、見た目による人の差別から成り立っている。

マディソンに恋をしている男性が、この映画ではもう一人登場する。それはコンブルースという、インテリの科学者だ。この映画では、コンブルースは、アランとは違い、黒縁のなんだか重そうな眼鏡をかけた、髪の毛がもじゃもじゃの、研究のことしか考えていないような、いわゆるオタクでもさい男として描かれている。

アランとコンブルースの違い。それは、マディソンを研究対象として求めているのがコンブルースで、マディソンをルッキズムの支配した世界での理想の女性として求めているのがアランということだ。

この映画ではルッキズムは、当然のこととされている。ただ、そこにビビを入れるのが、インテリの科学者のコンブルースと、アランの兄の小金持ちのフレディーだ。どちらの人物もルッキズム的には、美男ではない。

フレディーは、小金持ちで、陽気なので、太ってはいるが、女性に好かれ、結婚を何度もしている。フレディーは言う。「アラン、弟よお前はいいな。俺は、お前ほど強く相手を好きになったことはない」と。

この映画でのフレディーの描かれ方は、酷い。フレディーは、スカートをはいている女性がたむろしていると、そこに大量の小銭を、わざと落として、女性たちのスカートの中を覗こうとする、いわゆるセクハラ男で、変態だ。

美男が、フレディーと同じことをするか? それは人によってさまざまだろうが、美男はルッキズムの勝者であり、女性が彼らを好むので、フレディーのようなあからさまなセクハラに走ることはないもかもしれない。

小銭をばらまいて、女性のスカートの中を覗く。それはまるで、フレディーがお金で女性をおびき寄せているかのようだ。ルックスがいまいちなので、お金で女性をつる。それがフレディという男だということだろう。

顔で女性を惹きつけるのは、なぜか正しいことで、お金で女性を引き付けるのは、ゲスのやることとでも言っているかのようなフレディーの描かれ方も、この世界が、特に1984年の世界はルッキズムが支配していることを示している。

この映画「スプラッシュ」だけが、ルッキズムの映画というわけではない。ルッキズムは映画界全体を支配している。なぜ、世界の俳優が街中でスカウトされるか? それは、彼ら彼女らが見た目で人より勝っていると、映画関係者が見込むからだ。ルッキズムは、お金を生む。つまり、ルッキズムは大衆の精神に根差している。

科学者のコンブルースはどうか? コンブルースはきっと性的なリビドーを、研究で昇華させている。人魚は、科学者の研究の象徴だ。科学者は性的なリビドーを研究対象にそそぐ。その研究対象はバクテリアかもしれないし、細菌かもしれない。

コンブルースの研究対象の人魚は、科学研究者のリビドーの発散の仕方を、わかりやすく示したものだ。科学者は、リビドーを、つまり簡単に言ってしまえば、生きるエネルギーを、研究対象に注ぐ。その対象が、人魚なら、これほどリビドーの持って行き先としてふさわしいものはない。研究対象が人魚というのは、リビドーの対象としてわかりやすい。

この場合人魚は、人間と魚の融合した奇妙な物体というよりも、人間に姿を変えるかもしれない生命体として、捉えられていることになるが…。

コンブルースは、科学者はリビドーを、人間以外のものに見いだす類の人である、という言い分の現れだ。つまり、人を愛せない科学者がコンブルースだ。コンブルースは、人間よりも人間以外のものに強い執着を持つ科学者、という宿命のもとで生きている。

ルッキズムで支配された世界。その世界を肯定するしか、私たちの生き方はあり得ないのか? ルッキズムは、ただの娯楽で、人生に影響をもたらさないのか? 娯楽としてのルッキズムは、被写体を優遇するのか? 一体どうなのだろう?


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