映画「モガディシュ 脱出までの14日間(原題:Escape from Mogadishu)」を観た。
この映画は2021年の韓国映画で、映画のジャンルはドラマ・バイオレンス・アクション映画だ。
この映画のタイトルのモガディシュというのは、アフリカ大陸にある国ソマリアの首都のことだ。この映画の舞台のソマリアでは、内戦が起こっていて、政治状況が不安定で、ソマリアの北で起こっていたソマリ・ナショナル・ムーヴメントと呼ばれる民衆の反乱軍が、いつ首都に来てもおかしくない状況になっていた。
それがざっくりとした、この映画の舞台と、時代背景だ。1969年のクーデターにより、モハムド・シアド・バーレが、ソマリアの三代目の大統領になり、この映画舞台になる1987年頃には、バーレの政治が、全体主義的で専制的であることにより、民衆の反感を招いていた。
バーレは、ソマリアの近代化、銀行と工場の国有化、共同組合による農業、ソマリ語のための新しい書き言葉のシステム、アンチ・部族主義などを進めた。バーレは社会主義的な政治を行ったが、それがいつの間にか、汚職と全体主義と専制がはびこる体制になってしまった。
アンチ・部族主義を始めたバーレだったが、この映画「モガディシュ」の中では、大統領の取り巻きは、大統領の親戚ばかりで、交渉すると賄賂が必ず必要となるような酷い状況になっている。
バーレは、最初は理想に燃える社会主義者だったが、腐敗してしまったわけだ。そこで民衆の不満も高まって来ていた。なんせ、ソマリアへの援助が、大統領の側近の家族のための留学費に使われてしまうというありさまだったからだ。
ソマリアは、19世紀イタリアと大英帝国の植民地だった。その状況からの独立が、ソマリアの人々の願いだったのだろう。しかし、その独立は、なかなかうまくいかないのが、現実の状況だ。
新しい政権ができても、すぐに腐敗して、クーデターが起こる。そして、クーデターを起こした政権も腐敗する。それに対して民衆が怒り、俗にゲリラと呼ばれる反乱軍が発起する。そしてクーデターが起こり…。
というのが、アフリカではよく見られる国の在り方のパターンだ。そのアフリカの政府軍や、反乱軍に、トレーニングをしているのが、欧米諸国だったりするのが現状だ。欧米諸国は明らかにアフリカに混乱を作り出している。
アフリカの混乱に乗じて、そこでショック・ドクトリンを行う。ショック・ドクトリンとは惨事便乗型支配であり、この言葉を普及させたのはナオミ・クラインだ。つまり、内戦の混乱が起きている最中に、欧米は、アフリカの資源を格安で採っていく。
欧米だけでなく、ロシアや中国も、アフリカの資源を手に入れることが目的で、アフリカと国交を持っているが、現地のアフリカが内戦だろうと何だろうと、安い資源が手に入れば、欧米、ロシア、中国には、アフリカがどうあろうと関係ないようだ。
この映画の中心人物たちは、韓国領事館と北朝鮮領事館の人たちだ。なぜ、韓国と北朝鮮がアフリカに領事館を持っているか? それは、映画中でも説明されるが、国連に加盟したいからだ。
国連の加盟の賛否を決定する投票権の多くを持っているのが、アフリカだ。国連に加盟したいならばアフリカ各国の票が必要だ。アフリカのソマリアの票も、韓国や北朝鮮が国連に加盟するのに必要な票の内の一つだ。
韓国や北朝鮮は、競うように、アフリカの票をとろうとしていた。そのアフリカの国の中の一つがソマリアだ。そして、そのソマリアは内戦状態になったことから、この映画の内容は展開していく。
ソマリアは、バーレ大統領によって近代化されたはずだが、それも未完で、内戦が起こるような状態になっている。つまり、国中に海外からやってきた銃器が溢れている。韓国の領事館の車が、銃撃されて荷物を盗まれても、特に国が動いてくれるとかではない。
内戦状態のソマリアは無法地帯だ。内戦のある前から、汚職がはびこっていたのに、さらにその上に無法地帯になる。それが、アフリカの混沌とした状態をよく現わしているような気もする。
ソマリアが内戦になった。このままでは命が危ない。反乱軍が国を占領すれば、ソマリア政府に仕えていた当時の領事館は、反乱軍にとっては敵となる。だから、ソマリアから一刻も早く脱出しなければならない。
それが、この映画で描かれる状況だ。そして、その命懸けの脱出の途中で、北と南の朝鮮の人たちが協力するというのが、この映画の面白い点だ。いつもは、互いにライバル視させられている国同士の人たちが、協力するのだ。
北朝鮮の領事館の家族が、韓国の領事館に助けを求めてくる。その時に気付くことは、韓国も北朝鮮も同じ言葉を話していることだ。ソマリアのバーレ大統領は、ソマリアの識字率の向上のためにつくしたが、朝鮮でも一つの国として言葉が統一されていた。
朝鮮戦争で、朝鮮半島が北と南に分かれて戦った時も、北も南も同じ言葉を話していた。国を形作るには、同じ言葉を話す人たちが必要になる。言葉が国の統一を現わす。国という狭い範囲に囚われているのは残念だが、国の形成は、国際的な連帯の第一歩にもなる可能性だってあるはずだ。
北と南が同じ言葉を話す。つまり、そこでは言葉を使ったコミュニケーションが可能になる。よって、北と南は国は違えど、近親者として寄り添うことが可能になる。国を作り出している言葉が、国境を超える。
それは、英語やフランス語やスペイン語によく似ている。英語やフランス語やスペイン語は、宗主国の言葉として世界中の植民地で使われていた。その植民地支配が形上終わった現代でも、その名残として、英語やフランス語やスペイン語は、世界の広い地域で話されている。
中でも英語は、世界共通語としての地位を確立しているといってもおかしくない。それは、英米の支配の歴史をよく現わし、英米の強さの証明であり、それは同時に残酷な支配の歴史の証明でもある。
ただ、そのような悲劇的な部分もあるにしても、英語があれば世界中の人とつながることができる可能性が広がるのは、事実だ。ネオリベラリズムとキリスト教原理主義を普及させるようなアメリカのグローバリズムという負の側面も確かにある。
ただ、言葉が通じるというのは、便利だ。その便利さは、日常の生活を円滑にしもする。今現在、世界中から様々な言語が失われているという話もある。ただ、それでも、世界中の人と繋がれる言葉と、個々の言語の共存は可能だと思う。
言葉が同じでも対立する北と南。それでも、言葉と箸の使い方という面で共通項を感じることができる北と南。箸を使うという所作は、言葉以上に説得力を持つ。それもありだ。ただここで、あえて言葉に注目するのならば、北と南は、本当は国境などないのだ。