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法の内と外

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映画「悪人伝(原題:The Gangster ,the Cop ,the Devil)」を観た。

この映画は2019年の韓国映画で、映画のジャンルはバイオレンス・アクションだ。

この映画の主な登場人物は3人だ。ヤクザ(the gangster)のボス、チャン・ドンス、刑事(the cop)のチョン・テソク、連続殺人犯(the devil)のカン・ギョンホだ。

この映画は、快楽殺人犯であるカン・ギョンホを追って、ヤクザのボスのチャン・ドンスと、刑事のチョン・テソクが手を組む。連続殺人犯を追ううちに、ヤクザ同士の抗争にドンスとテソクは巻き込まれていく。

連続殺人犯・快楽殺人犯であるカン・ギョンホは、35歳だ。子供の頃に父親から暴力を受けて、施設で育てられた。自室には、水槽とニーチェの「善悪の彼岸」「道徳の系譜」、ハンナ・アーレントの「人間の条件」などの哲学書が並んでいる。

正直、筆者はニーチェの「善悪の彼岸」を少し読み、アーレントの「人間の条件」をほどほどに読んだ身なのだが、それがどう連続殺人と結びつくかがはっきりとはわからない。

ニーチェの「善悪の彼岸」は、ニーチェの生きた時代までの哲学者の持つ、哲学者自身の本能により導かれた偽りの客観性による二律背反を乗り越えて行こうとする内容だ。そこでは従来の善悪の二律背反が否定されるが、善が完全に否定されるわけではないはずだ。

ニーチェの「善悪の彼岸」が、連続殺人犯の読んでいた本として示されるのは、連続殺人犯であるカン・ギョンホが、インテリだということだ。そして、ニーチェの「善悪の彼岸」を拡大解釈したのならば、それが連続殺人に繋がるという筋道は立てることは一応できる。

ニーチェの「善悪の彼岸」のタイトルから、“善も悪も超えた存在”を安直に想像したのならば、それは連続殺人犯という形をとるのか? それは、はっきり言ってニーチェを少し読んだだけの判断だが、ニーチェの読み方の偏りを示していると思う。

ニーチェは、以前の哲学者の恣意的な善悪の判断に難色を示したのであって、善を否定しきってはいない。そう筆者は捉えている。よって「ニーチェの「善悪の彼岸」? いかれた本ね」といった言い回しは、単純すぎると思える。仮に、そう考える人がいるならばだが。

アーレントの「人間の条件」も、連続殺人に繋がる本とは考えられない。これもタイトルが「人間の条件」で、タイトルから“人間である条件とはどういうことか?”という問いを受け取るのかもしれない。その問いが、人間でない者を、つまり殺人者を連想するのかもしれない。

アーレントの「人間の条件」は、人間の在り方について、詳細に正確に述べようとしたもので、“人間でない者”について詳しく書いてあるような本ではない。人間が生きることとはどういうことかを厳密に述べようとしたのが、アーレントの「人間の条件」だ。

ニーチェの「善悪の彼岸」や「道徳の系譜」、アーレントの「人間の条件」を読むようなインテリが、実は同時にイカレタ殺人鬼だったというギャップが、この映画の面白いところなのかもしれない。

頭がいいほど、イカレテイルと言いたいのか? それともたまたまインテリが、イカレテいたのか? そのような推測は、この映画では追及されない。連測殺人犯は、哲学書が読めるほどはインテリで、法の裏をかくことができる能力がある、という見立てを作ることができればよかったのだろう。

つまり、カン・ギョンホの読んでいる哲学書は、頭が良いことの証明で、「連続殺人鬼が読む哲学書はこれです」、と言いたいわけではないのだ。この映画では、カン・ギョンホがインテリで司法システムの抜け穴にも詳しいと言うための説得力のために、哲学書がカン・ギョンホの部屋の机の上に並んでいる。

ところで、この快楽連続殺人鬼を追うのは、この連続殺人鬼のカン・ギョンホに襲われたヤクザのボスのチャン・ドンスと、連続殺人をもともと追っていた刑事のチョン・テソクだ。チャン・ドンスは、殺されかけた自分と自分を殺そうとした相手との“辻褄を合わせる”ための復讐のために、チョン・テソクは、自らの正義感のために、連続殺人鬼カン・ギョンホを追っている。

チャン・ドンスを演じるのは、アメリカで元ボディビルダーだった俳優マ・ドンソクだ。マ・ドンソクは「新感染 ファイナル・エクスプレス」、ハリウッド・ヒーロー映画「エターナルズ」、「犯罪都市 THE ROUNDUP」等に出演している、敵をビンタで戦闘不能にしてしまう、強力なビンタを持つ役柄の俳優だ。

この映画「悪人伝」でも、マ・ドンソクのビンタは炸裂する。それだけではない、向かってくる敵を一本背負いで投げ飛ばす。連続殺人鬼のカン・ギョンホに刺されても、刺し返す。非常に強力な役を、この映画「悪人伝」でもマ・ドンソクは演じている。

マ・ドンソク演じる、チャン・ドンスは法の外に住む男だ。ヤクザとは法の外と内を行き来して暮らす。チャン・ドンスは、日本で言うならパチンコのような、ゲーム機の置いてある店の経営で日々の賃金を稼いでいる。

ドンスの目的は、その他多くの人と変わらない。自らの利益を増やすことだ。労働者が日銭を稼ぐように、ヤクザも日銭を稼ぐ。その点では、ヤクザと堅気の人は変わらない。だた、ヤクザの関わる業種は、人のタイプが荒っぽく、店舗を増やしていくやり方も、法の内と外を出たり入ったりする。

そのヤクザのドンスが、法を笑っている連続殺人鬼のカン・ギョンホと殺し合いをする。ドンスは法の外を生きることもできる。だから、この2人の闘いは、刑事であるチョン・テソクとカン・ギョンホの闘いよりも、わかりやすい。殺すか、殺されるかだからだ。

この映画で、テソクの役割とは、法を執行することだ。そのための象徴的な存在として、テソクは存在することになる。テソクは法の番人だ。だから、テソクは法の権限で連続殺人鬼を裁こうとする。法を介在する殺人=死刑を、テソクは視野に入れている。

法も殺人を犯す。それが死刑だ。合法的な殺人が死刑だ。そのような権限を法に与えていいのか? この映画を観る人は、そのような疑問にもぶち当たることになる。この映画は、クラマックス近くで、たんなるバイオレンス映画とは違った展開をする。

法による刑罰の役割は、被害者関係者の感情の回復にあるとされる。つまり、被害者のいたたまれない気持ちを、法が被告を罰することで回復させるというのが、法の役割だ。ただ、そのために国に殺人の権限を与えるのは良いことか?

戦争で人が人を殺しても罪に問われないように、国が殺人をすることが合法の世の中でいいのか? この映画はそのようにも、観る者に訴えてくる。


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