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リハーサルができない!!

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映画「英雄の証明(原題:A Hero)」を観た。

この映画は2021年のイラン・フランス合作映画で、映画のジャンルはヒューマン・サスペンスだ。

この映画の舞台は、現代のイランだ。この映画の主人公は、元妻の兄に借金の返済ができなくなって、刑務所に入っているラヒム・ソルタニという男だ。ラヒムには、元妻の間にノアヴァシュという子供がいる。ノアヴァシュは、吃音症だ。

ラヒムには、結婚の約束をしているファルコンデという言語聴覚士の女性がいる。その女性が金貨17枚の入ったバックを見つけて、その金貨をラヒムの借金を返して刑務所から出所できるように使おうとするところから、この映画は始まる。

ラヒムは、元妻の兄バーラムからお金を借りて、共同経営者と会社を興そうとしたところ、共同経営者にお金を持ち逃げされて、借金を義理の兄に抱えることになる。その額は一億強だ。ラヒムは、無職でお金を返すあてもない。

そんなラヒムの所に、お金を返せるチャンスが巡って来る。それが前述した、ファルコンデが見つけた金貨17枚だ。金貨17枚を換金すれば、刑務所から出所できる。そう、ラヒムもファルコンデも思う。

しかし、ラヒムが刑務所から休暇で出て、金貨をお金に換金する際に、金貨の金額を計算するための計算機は壊れ、ペンのインクは切れてしまう。それを、ラヒムは、神からのお告げだと受け取る。ラヒムは、金貨を換金することは止めて、持ち主に金貨を返そうと張り紙を街に貼る。

すると、金貨の持ち主がやって来て、金貨を持って去っていく。その、受け取りに来た女性が、いかにも胡散臭く、ラヒムの家の子どもたちは、その女性を「胡散臭いな」という目で見ている。

金貨を落とし主に返したことが、刑務所の従業員の耳に入る。すると刑務所の従業員は、ラヒムの行いを誉めて、ラヒムを、刑務所のイメージ・アップのためにテレビに出す。それで、ラヒムは街の英雄になることになる。

だが、その街の英雄を許さない人物がいる。それはラヒムにお金を貸している義理の兄バーラムだ。バーラムは、ラヒムの善行を認めない。「ラヒムは嘘をついている」それが、バーラムの言い分だ。バーラムは、ラヒムのことを許さない。

この映画の監督アスガー・ファルハディーは、インディー・ワイヤーの2022年1月26日のインタビューで、「現代のイランの社会では、失敗は許されない」と言っている。そして、2021年11月14日のデッドラインのインタビューでは、「リハーサルでは、ミスできるし、決定を変えることができる。事実を見つけて、キャラクターを与えて、そのキャラクターは白か黒ではない」ということを述べている。

リハーサルはミスできる。しかし、現実はミスをすることはできない。それが、監督の発言にみられる。リハーサルは映画を作り出すために行われる方法の一つだ。そこでは、ミスをしてもいい。何度でもやり直しがきく。

ラヒムを演じる俳優も、リハーサルで何度も間違ったかもしれない。しかし、ラヒムを演じる俳優は、それで刑務所に入れられることはない。なぜなら、それは現実ではないからだ。しかし、現実にリハーサルはない。一度、借金をすれば、ラヒムのように刑務所に入ることもありある。映画はリハーサルができる。現実はリハーサルができない。

映画は、映画だ。しかし、映画は嘘をつくという前提で、存在している、いわば嘘の塊だということもできる。ラヒムという人物は現実には存在していない。しかし、ラヒムの演じるような劇を、現実で生きている人は存在するかもしれない。

映画は嘘であり、映画は現実である。映画は想像の世界だが、それが現実の世界をよりよく現わしていることもある。それが、映画と現実のおかしな関係だ。だから、人々は嘘の塊とは言い切れない映画を、観るのかもしれない。

映画は、現実を現わしている可能性があるといえる。そこで、ラヒムを観る観客は、ラヒムの行いを通して現実をみているような気になる。“世界は確かにそうなっている”と。そこでは、映画のリハーサルが可能、という現実に焦点が当たる。

リハーサルができる映画の性質を通じて、映画を作る監督は、現実の失敗できなさを痛感するのかもしれない。映画という作法が、現実の失敗の取り返しのつかなさをあぶりだす。映画のリハーサルという作法が、現実の世界の厳しさを浮き彫りにする。

リハーサルのできる映画が、リハーサルのできない現実を描きだす。それがこの映画の在り方の一つだ。

映画中、ラヒムは、自分の借金や、自分のついた嘘によって、どんどんどんどん追い詰められていく。金貨を盗らなかったラヒムは、実は善でも悪でもない。つまり、白でも黒でもない。この映画「英雄の証明」はその描写を、これでもかというくらいに描き出す。監督は、容赦なく現実の過酷さを描く。それがこの映画だ。

ラヒムの息子ノアヴァシュは吃音症で、言葉をとぎれとぎれでしか話すことができない。そのノアヴァシュを刑務所の従業員は、刑務所のイメージ・アップのために使う。「君のそのぎこちない話し方は、人々の同情を買う。最高だよ」。刑務所の従業員は、ノアヴァシュにそう話しかける。

それを観ているラヒムは、罪悪感にさいなまれる。ラヒムは、自分が刑務所にいたくないがために、息子のノアヴァシュを利用している。そのようにして、刑務所の従業員が撮っている、刑務所のイメージ・アップのための動画は、ラヒムに迫る。

ラヒムは、自殺者を出すような刑務所のイメージ・アップのため動画を撮っているということの罪悪感と同時に、自分が刑期を逃れるために息子を利用している父親だ、と見られることに恐怖を感じている。想像は、悪い方向にしか進まない。ラヒムは、借金をしたという失敗から、多くの負担にさいなまれるようになっている。

人は現在の法治国家の制度の下にいる限り、一度の失敗でも許されることはない。それが現代の法律の制度だ。そして、その裁きは、時に検察の偽証による有罪だったりもする。現在の司法制度は、つまり万能ではない。

無実の人が、現在の法制度のもとで有罪になって死刑を言い渡されることが、現実にはある。それは、この映画の舞台のイランだけではなくて、日本でも同じことだ。法は人が作り出す。完全で利他的な神が作ったのではない。つまり、法律は恣意的であり、不完全だ。

その法律に人生を左右されるのは、なんとも馬鹿げたことだ。法律は何のために必要なのか? 人を罰することは、本当に人のためになるのか? 被害者の感情回復のために、法を利用するだけでいいのか? 罪人の人権はあるのか? 無実の人が罪人になりはしないか?

この映画を観ると、そう考えさせられる。


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